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「新選組芹澤鴨・天狗党長谷川庄七 年表」 

      文政7年(1824年)~慶応3年(1867年)

 

 

文政7年(1824)または9年(1826)、10年(1827)

長谷川庄七、常陸国芹沢村芹澤外記の四子として生まれる

嘉永3年 鹿島郡駒場村郷士長谷川四郎右衛門の養子となる 

養父四郎右衛門の長女八重子と結婚、養父の後を継いで里正となる

 

文政9年(1826)または天保元年(1830)、天保3年(1832)?

芹澤鴨、生まれる 出生地不明(前名は下村嗣次と言われる)

弘化2年(1845年) 下村嗣次の子と言われる下村常親生まれる

 

嘉永6年(1853) 

 6月  3日 浦賀に「ペリー来航」

 

安政2年(1855) 

10月 2日 「安政の大地震」藤田東湖・戸田忠太夫 圧死

 

安政5年(1858) 

  4月23日 井伊直弼 大老に就任

  6月19日  「日米修好通商条約」調印

  6月24日 将軍継嗣問題及び条約調印について、徳川斉昭は越前藩主 松平慶永、

尾張藩主 徳川慶怒らと不時登城し、井伊直弼を詰問

  7月  5日 幕府、斉昭に急度慎を、徳川慶怒、松平慶永に隠居・急度慎を命じる

  8月  8日 「戊午の密勅」水戸藩へ

  9月    第一次 小金宿屯集 (翌年6月 第二次 小金宿屯集)

  9月      「安政の大獄」始まる

10月25日 徳川家茂14代将軍になる

 

安政6年(1859) 

7月20日 「ロシア海軍軍人殺人事件」

 8月27日 徳川斉昭 国許永蟄居

12月23日  「長岡屯集」密勅返納に反対する水戸藩尊攘派が水戸街道長岡宿へ集結

翌年2月に水戸藩からの武力鎮圧が決まると解散、井伊大老暗殺へと動く

 

万延元年(1860) 

 3月  3日  「桜田門外の変」 井伊直弼 暗殺

 7月22日 「成破の盟約」 丙辰丸にて、長州・水戸による幕政改革の密約

 8月15日 徳川斉昭 死去

12月27日 府中で300両の金策書上帳に下村嗣次の名

12月下旬   桜田門外の変・長岡屯集に関わった残党(大津之綱を中心とする一派)が小川郷校・玉造郷校(玉造勢)へ屯集

 

文久元年(万延2年・1861) 

 1月   府中で400両の金策書上帳に下村嗣次の名

 1月        佐原で800両借用の証文に下村嗣次の名

 3月28日 幕府に捕らえられ入牢した「玉造勢」水戸浪人の中に下村嗣次の名

5月28日 「東禅寺事件」

10月20日~11月15日 皇女和宮 中山道を江戸へ

 

文久2年(1862) 

    1月15日  「坂下門外の変」老中 安藤信正 水戸浪士に襲われる       

 2月11日 皇女和宮降嫁 和宮と徳川家茂の婚礼が行われる

 4月23日  「寺田屋騒動」

 7月  6日 一橋慶喜 将軍後見職につく

 8月21日  「生麦事件」

閏8月  1日 松平容保 京都守護職につく

12月12日 「英国大使館襲撃事件」

12月28日 密勅降下事件に関わる入牢者を赦免(水戸領内)

 

文久3年(1863) 

   1月    下村継次(嗣次) 大赦により出牢、 名を「芹澤鴨」と改める?

   2月8日~23日 清河八郎・浪士組 江戸伝通院を発ち、中山道を京へ

   3月  4日 将軍徳川家茂 上洛

       水戸藩主・徳川慶篤 上洛

       慶篤について、藤田小四郎・田中愿蔵・林五郎三郎等も上洛

       桂小五郎・久坂玄瑞等と京にて会合を持つ

                      長谷川庄七、江戸城西丸警護につく その後「新徴組」に入るが脱走   

   3月12日 壬生浪士組 会津藩お預かりとなる     

   4月13日 清河八郎 暗殺

   7月  2日  「薩英戦争」

   8月18日  「八月十八日の政変」朝廷から尊攘激派七卿と長州勢力が一掃される

      壬生浪士組「新選組」の隊名を賜る       

   9月13日 新見錦 切腹?      

   9月16日 芹澤鴨・平山五郎 暗殺

11月         水戸浪人 鹿島根本寺へ屯集(2~300名。4~500名とも)、尊王攘夷を盛んに唱える。水戸藩内各地の郷校にて、尊攘激派が屯集

11月頃    長谷川庄七、紀州屋にて山田一郎等と共に藤田小四郎と出会う。   

12月8日  依田学海「学海日録(二)」月報七  に長谷川庄七の記述

 

元治元年(1864) 

   3月25日 一橋慶喜 将軍後見職を免ぜられ、禁裏御守衛総督に就任

   3月         府中石岡に残る受領証に竹内百太郎・岩谷敬一郎・長谷川庄七の連名

   3月27日 天狗党 筑波山挙兵  

   4月  3日    天狗党、筑波山を出発

                     長谷川庄七、部隊編成で室町稲太郎と共に小荷駄奉行となる   

  4月12日     長谷川庄七、宇都宮付近に屯集した150人程の天狗党の幹部として報告される          その後、太平山に移動、部隊編成で寺沢亘と共に輜重奉行となる

   6月  5日「池田屋事件」

   6月      天狗党、太平山を下り再び筑波山へ

   6月    「愿蔵火事」田中愿蔵等による天狗党別働隊、栃木・土浦・石岡で強引な資金調達 田中愿蔵は攘夷の強行と倒幕を主張 7月3日付にて天狗党から除名処分

  7月7日~9日「下妻の戦い」筑波勢x諸生党・近隣諸藩・幕府陸軍

この戦いで負けた諸生党・市川三左衛門は、水戸藩が保守派から改革派へ政権交代の為

江戸に戻れず 水戸に入り天狗党の家族を弾圧、水戸での藩政の実権を握る

7月10日 遠州相良藩主 田沼玄蕃頭意尊 追討軍総督となる。

   7月10日 筑波勢、軍議「内奸を除くべく水戸へ」「天下の為に攘夷を志す」と分裂

   7月19日 「禁門の変」(「蛤御門の変」)

   7月24日 筑波勢、筑波山を下り小川館に本営 

                      藤田小四郎・岩谷敬一郎を軍将に軍勢が出発 長岡へ

   7月26日 「銷魂橋の戦い」諸生党x筑波勢 ※これより筑波勢と記す

   8月  4日  宍戸藩主 松平頼徳・大発勢 鎮撫の為、江戸を立ち水戸へ  武田耕雲斎・山国兵部等天狗党親派も参加 人足も含め三〇〇〇名もの「大発勢」となる  

   8月  8日  大発勢水戸着 水戸藩藩主の名代である松平頼徳に対し、諸生党・市川三左衛門等は応じず入城出来ず 松平頼徳は「薬王院」へ

   8月~10月 天狗党・大発勢x諸生派・幕府勢 那珂湊付近で交戦           

   8月12日 「願入寺の戦い」

   8月16~18日 諸生党・市川三左衛門等が「夤賓閣」から攻撃 筑波勢が撃破

長谷川庄七、「夤賓閣」攻撃の際、一部隊の隊長として突撃し戦死 

19日に小川 天聖寺に埋葬(後に、長谷川家墓地に改葬される)

  8月22~23日「神勢館の戦い」

  9月  2日   天狗党攘夷派が横浜を目指し、鹿島に屯集 幕府・近隣諸藩より追討軍

  9月7~10日「青沼村の戦い」麻生藩x天狗党他攘夷派(全滅となる)

  9月26日 大発勢に「休戦して後報を待つように」と言い付け、頼徳一行は那珂湊を出て、長福寺の戸田五助に会う 諸生派の甘言に騙され、翌日、弁明の為江戸に向かい、堅倉にて水戸城兵に捕らえられる

10月    部田野原一帯の激戦 天狗党x諸生派・幕府勢

10月  5日  松平頼徳 切腹

10月23日  大発勢 降伏

10月          新選組に伊東甲子太郎が加入       

11月  1日  天狗党集結し、大子村を出発、※これより西上勢と記す

11月16日 「下仁田戦争」 天狗党x高崎藩

11月20日 「和田嶺合戦」 天狗党x松本藩・(諏訪)高島藩連合軍

12月   1日  西上勢、大雪の蝿帽子峠へ

12月   3日    一橋慶喜、西上勢迎撃を願い出て朝廷から許され、大津に出陣
                      他に松平昭武、在京諸藩・近隣諸藩、二万~三万の大包囲網

12月17日  天狗党 加賀藩に降伏

慶応元年(1865年) 

   2月  4日 武田耕雲斎・藤田小四郎 敦賀にて斬首 西上勢、総勢353(2)名が死罪

   2月23日 山南敬助切腹

   3月10日 新選組、屯所を西本願寺に移す

 

慶応2年(1866年) 

  1月21日 薩長盟約

12月  5日 一橋慶喜 15代将軍になる

12月25日 孝明天皇 崩御

 

慶応3年(1867年) 

  3月30日 伊東甲子太郎 高台寺党を結成

10月14日 「大政奉還」

11月15日 坂本竜馬・中岡慎太郎 斬殺

11月18日 「油小路の変」 伊東甲子太郎 暗殺

12月  9日 「王政復古の大号令」

12月18日 近藤勇 高台寺党残党により襲撃される

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