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慶応四年の芹澤本家当主は誰か


※芹澤家菩提寺の過去帳を根拠に、芹澤鴨の幼名は「玄太」だと言われていました。過去帳の画像を確認すると、慶応四年に亡くなった女性の戒名の下には、「芹澤玄太妻」ではなく、「芹澤兵太妻」と書かれていました。それでは「芹澤兵太」とはどういう人物なのか調査したところ、『東下村波崎名主石橋彦兵衛願書』から、慶応四年当時、行方郡芹沢村の本家芹澤家の当主であったことが判明しました。従って、「芹澤玄太」と誤って翻刻された人物は、正しくは「芹澤兵太」で、文久三年に亡くなった芹澤鴨(の幼名)ではありませんでした。また「芹澤兵太」は、貞幹の孫に当たる美幹(潔とも)のことであり、貞幹の三男でもないことが、後に分かりました。

※ 今回は、展示した際の解説文のみup致します。

※詳しくは、「常陸國の幕末史実」記事・・「芹澤兵太の謎」「長谷川庄七の謎①」「長谷川庄七の謎②」をご覧下さい。

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「慶応四年周辺村々騒動につき東下村波崎名主石橋彦兵衛願書」(一部抜粋)

   『茨城県史料・近世社会経済Ⅲ』所収、茨城県史編さん近世史第二部会編、一九八八年


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