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「常陸志 第1編 (鹿島郡之部) 」
長谷川庄七の新たな史料が見つかりました。 多少の違いはありますが、塙泉嶺著『鹿島郡郷土史』とほぼ同じ内容です。 画像転載には、文化庁長官の裁定が必要になりますので、 リンクのご紹介だけ致します。 「常陸志 第1編 (鹿島郡之部) 」 小沼総蔵 編...
hitachinokuni
2018年4月27日読了時間: 1分
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塙泉嶺著『鹿島郡郷土史』
『鹿島郡郷土史』塙泉嶺著( 「政教新聞社」1927) 沼前村之部 故長谷川 壯 七 氏は駒場人也、東茨城郡芹澤村芹澤外記の第四子也嘉永三年出でて長谷川四郎工門の家を嗣ぐ由來同家は駒場の豪族たり、文久三年徳川將軍入朝の折壯 七命を受け西丸を警衛す 所謂 新徴組なるもの是也壯...
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2018年4月9日読了時間: 1分
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小宮山楓軒『楓軒紀談(八)』
小宮山楓軒(1764~1840)の書き残した『楓軒紀談(八)』の芹澤外記に関する記述 (国立国会図書館所蔵) 文政八年乙酉 (中略) 外記ハ男女ノ子九人アリ男子多治見(家督孫四人)半五郎(分家孫三人)門弥(府中税所氏養子孫三人中一人夭死)重五郎(浜野茂衛門孫養子ニ約)...
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2018年4月6日読了時間: 1分
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小宮山楓軒の記述による長谷川庄七の生年・父である芹澤外記とは誰の事か
※長谷川庄七は「那珂湊戦争」諸生党が陣とする夤賓閣(湊御殿)を攻め落とす際に亡くなりました。日付は史料によりそれぞれですが、元治元年(1864)の事でした。史料に書かれている享年による生年は以下の通り。 墓碑「享年四十一」・・文政7年(1824)...
hitachinokuni
2018年4月4日読了時間: 1分
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長谷川庄七ハ芹澤外記ノ四男(四子)也
※もとはと言えば、「芹澤貞幹三男」について調査していたものが、あちらこちらから新発見されたのは四男・長谷川庄七についての史料でした。「芹澤外記の子供たちは『三男一女 』とあるのに、四男(四子)とはどういう事なのだろうか?」と、調べていらっしゃる皆さんは本当に頭を悩ませていま...
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2018年4月2日読了時間: 2分
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夤賓閣にて、長谷川庄七 死す
※ 夤賓閣での戦いは、8月16~18日。『水輜重府室町氏筆記(全)』には「八月十五日長谷川勝七亡骸小川之陣営二贈る」、墓碑には「八月十五日也」、鹿島郡郷土史には「八月十八日也」、昭和大礼贈位書類第三冊『故長谷川庄七』には「元治元年八月十六日戦死」と、亡くなった日付はまちまち...
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2018年3月30日読了時間: 2分
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長谷川庄七の役職
※日光東照宮を目指す筑波勢。武装をした集団が行軍しているという事は、一大事としてあちこちに報告されていた事でしょう。小寺玉晁は尾張藩士で雑学者です。本名は広路。字は好古。 水戸藩以外の探索者が一刻を争い人名を突き止めるのは大変な事。記載された人名には間違いもあり、名前違いで...
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2018年3月28日読了時間: 1分
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長谷川庄七の人となり
※長谷川庄七の人となりは、依田学海「長谷川庄七に関する記述」に垣間見えます。また、佐倉藩に訪れた際の服装や背格好等が解るのも貴重です。↓のように断られる訳ですが、長谷川庄七は怒りを落ち着かせ、「お二人の話はよく分かった」と理解を示します。お互いに礼節ある話し合いをし別れます...
hitachinokuni
2018年3月26日読了時間: 2分
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「長谷川庄七」年表
長谷川庄七 ○生年には文政7年、9年、10年の記述がある。小宮山楓軒「楓軒紀談」から文政7年が有力。 ○那珂湊で戦死。元治元年8月15日、16日、18日の記述がある。亡骸は小川(郷校)に送られ、天聖寺に埋葬された後、長谷川家の墓地に改葬されたと考えられる。...
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2018年3月20日読了時間: 2分
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長谷川庄七プロフィール
長谷川庄七 生年には文政7年、9年、10年の記述あり。小宮山楓軒「楓軒紀談」から文政7年が有力。 天狗党筑波挙兵時の小荷駄奉行、輜重奉行。常陸国芹沢村芹澤外記の四子として生まれる。 後に鹿島郡駒場村郷士長谷川四郎右衛門の養子。養父四郎右衛門の長女八重子と結婚、養父の...
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2018年3月18日読了時間: 1分
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ウィキペディア「長谷川庄七」頁のお知らせ
ご無沙汰しております。 年が明けたらと言っていたら、もう三月弥生も後半です。 そろそろ動かないと!と思っていたら、どなたかがウィキペディア「長谷川庄七」の頁を作って下さいました。 脚注では、史料にもリンクされています。 ご覧になってみて下さいね。
hitachinokuni
2018年3月17日読了時間: 1分
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