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小宮山楓軒の記述による長谷川庄七の生年・父である芹澤外記とは誰の事か

  • hitachinokuni
  • 2018年4月4日
  • 読了時間: 1分

※長谷川庄七は「那珂湊戦争」諸生党が陣とする夤賓閣(湊御殿)を攻め落とす際に亡くなりました。日付は史料によりそれぞれですが、元治元年(1864)の事でした。史料に書かれている享年による生年は以下の通り。

墓碑「享年四十一」・・文政7年(1824)

鹿島郡郷土史「享年三十有八也」・・文政10年(1827)

昭和大礼贈位書類第三冊『故長谷川庄七』「庄七享年三十九。」・・「生年月日 文政九年(1826)」

楓軒紀談(八)文政八年乙酉「外記ハ男女ノ子九人アリ男子多治見(家督孫四人)」

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水戸藩の郡奉行等を務めた小宮山楓軒は歴史家で、水戸藩旧家の聞き取り調査をしています。芹澤家とも親しくしていた人物で、芹澤外記に関する記述は、文政8年(1825)年頭に記されました。つまり、四人目の子供は文政8年より前の生まれとなり、(上記の史料の中では)墓碑の文政7年出生の可能性が高いという事になります。

尚、小宮山楓軒の記述には、多治見が家督を継ぎ、三男は税所氏、四男は濱野氏へ養子に行ったと書かれています。従って文中の「外記」は後の清幹、多治見(多志見)は後の貞幹の事です。つまり「長谷川庄七ハ芹澤外記ノ四男(四子)也」の「外記」は貞幹の事と解ります。


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