『鹿島郡郷土史』塙泉嶺著( 「政教新聞社」1927)
沼前村之部
故長谷川 壯 七 氏は駒場人也、東茨城郡芹澤村芹澤外記の第四子也嘉永三年出でて長谷川四郎工門の家を嗣ぐ由來同家は駒場の豪族たり、文久三年徳川將軍入朝の折壯 七命を受け西丸を警衛す 所謂 新徴組なるもの是也壯 七人と為り英 邁 沈毅常に皇室の式微を患ひ之を挽回せんと欲すること年あり、明治元年春藤田小四郎田丸稲之右衛門等の義兵を野州太平山に 擧 ぐるや之を聞き 鄕 黨正義の士を募り來り應ずるもの頗る多し適々藤田小四郎等兵を擧 ぐると聞き二百餘人に將として馳参して太平山に入る山兵大に振ふ幕府諸藩に令して兵を發し攻撃甚だ急也山兵轉じて筑波山に屯す時に壯 七小荷駄奉行たり既にして藤田等大に為す所あらんとし、更に全軍を引き具して磯濱に走る幕兵又御殿山に據り那珂川を狭みて砲撃す山軍日夜奮闘之を攻む此の時に當り壯 七等飯田軍蔵と共に先 驅 未明那珂川を渡り御殿山を襲ふ敵亦鋭を悉くして之を拒ぐ拔けず翌日更に敵陣に肉迫す可惜壯 七丸に中りて遂に斃る時は八月十八日也享年三十有八也。
<ご注意>
明治元年・・・元治元年の誤り。
狭みて・・「挟みて」の間違い。
※以上、原文のまま掲載致します。