長谷川庄七
生年には文政7年、9年、10年の記述あり。小宮山楓軒「楓軒紀談」から文政7年が有力。 天狗党筑波挙兵時の小荷駄奉行、輜重奉行。常陸国芹沢村芹澤外記の四子として生まれる。
後に鹿島郡駒場村郷士長谷川四郎右衛門の養子。養父四郎右衛門の長女八重子と結婚、養父の後を継いで里正となる。
水戸藩藩主慶篤公上洛時の江戸城西丸の警備、後「新徴組」参加を経て、文久3年11月頃 紀州屋にて藤田小四郎と出会い、天狗党に関わって行く。 軍資金調達の為、府中石岡森家にて貮百両の受取証に連名で、竹内百太郎、岩谷敬一郎と共に「長谷川勝七」の名がある。
翌元治元年3月、筑波山挙兵に参加。8月中頃、那珂湊にて戦死。
市川三左衛門が「夤賓閣」から攻撃していたのを、筑波勢の一部隊の隊長であった長谷川庄七が1人真っ先に槍をふるって勇戦。他の者達も刺激され一斉に突進し奮戦、ついに市川勢は敗走したが、この戦いで長谷川庄七は敵弾に倒れた。
亡骸は小川(郷校)に送られ、天聖寺に埋葬された後、長谷川家の墓地に改葬されたと考えられる。後に依田学海は、長谷川庄七戦死の報に触れ「慷慨有志の士」と評している。