長谷川庄七
○生年には文政7年、9年、10年の記述がある。小宮山楓軒「楓軒紀談」から文政7年が有力。
○那珂湊で戦死。元治元年8月15日、16日、18日の記述がある。亡骸は小川(郷校)に送られ、天聖寺に埋葬された後、長谷川家の墓地に改葬されたと考えられる。
○箱根紀千也氏著「新選組水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助」により、長谷川庄七の足跡を追う。
文政7年(1824年)
常陸国芹沢村芹澤外記の四子として生まれる。
某年(「鹿島郡郷土史」によると嘉永3年(1850年))、鹿島郡駒場村郷士長谷川四郎右衛門の養子となる。養父四郎右衛門の長女八重子と結婚。養父の後を継いで里正となる。
文久3年(1863年)
3月 水戸藩主慶篤が上洛~4月に戻るまでと、しばらく後まで江戸城西丸の警備を行う。
その後「新徴組」に入るが、脱走。
9月18日付「小川館尊王攘夷連名帳」
10月中頃 府中紀州屋に山田一郎等と共に現れる。
11月頃 紀州屋にて山田一郎等と共に藤田小四郎と出会う。
12月8日 依田学海「学海日録(二)」月報七
下総佐倉藩仲町米屋(旅館)にて 儒官続徳太郎 佐倉代官依田学海に会い、攘夷の為に軍用金と兵器の借用を願うが「幕府を差し置いて挙兵するべきではない」
元治元年(1864年)
2月1日 小川郷校に現れる。
3月 府中石岡森家に残る覚(受領証)に竹内百太郎・岩谷敬一郎・長谷川庄七の連名
3月下旬 挙兵した天狗党の乱に加わる。
4月3日 筑波山を出発。部隊編成で室町稲太郎と共に小荷駄奉行となる。
4月12日 宇都宮付近に屯集した150人程の天狗党の幹部として報告される。
その後、太平山に移動、部隊編成で寺沢亘と共に輜重奉行となる。
8月中頃 那珂湊で戦死。
那珂湊の戦いでは様々な場所が戦場となりました。市川三左衛門が「夤賓閣」から攻撃していたのを、筑波勢の一部隊の隊長であった長谷川庄七が1人真っ先に槍をふるって勇戦。他の者達も刺激され一斉に突進し奮戦、ついに市川勢は敗走しました。しかし、この戦いで長谷川庄七は敵弾に倒れました。 後に依田学海は、長谷川庄七戦死の報に触れ「慷慨有志の士」と評しています。