※日光東照宮を目指す筑波勢。武装をした集団が行軍しているという事は、一大事としてあちこちに報告されていた事でしょう。小寺玉晁は尾張藩士で雑学者です。本名は広路。字は好古。
水戸藩以外の探索者が一刻を争い人名を突き止めるのは大変な事。記載された人名には間違いもあり、名前違いで重複した人物もあります。小荷駄奉行には長谷川庄七の他に、室町稲太郎の名前も。
※その後、太平山に移動、部隊編成で長谷川庄七は、寺沢亘と共に輜重奉行となります。
※展示した際の解説文のみup致します。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能な史料です。
※※失礼しました。誤字を訂正致します。(誤)小寺玉晃 → (正)小寺玉晁
小寺玉晁著『甲子雑録 第一巻』
(国立国会図書館所蔵)
「水府浪人が蜂起し、烈公(先君斉昭)の神位を奉じた葵紋付きの白木の長持を携え、日光山に登って来た」という報告書。その数約150人。幹部等の役職と名前が連なり、長谷川庄七は 小荷駄奉行となっている。