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長谷川庄七の人となり


※長谷川庄七の人となりは、依田学海「長谷川庄七に関する記述」に垣間見えます。また、佐倉藩に訪れた際の服装や背格好等が解るのも貴重です。↓のように断られる訳ですが、長谷川庄七は怒りを落ち着かせ、「お二人の話はよく分かった」と理解を示します。お互いに礼節ある話し合いをし別れますが、水戸藩士(浪士)とのやり取りが、毎回このような展開にならない事は、障子の影に佐倉藩士が隠れていた事にも表れています。この藩士達は依田学海が依頼したものではなく、水戸藩士(浪士)の乱暴な風聞から心配した者達が押し掛けたもので、「ひとつ間違えば」という緊張感が伝わって来ます。

※申し訳ないですが、展示した際の解説文のみup致します。許可頂いて展示した史料ばかりですので、写真また全文等の掲載は出来かねます事、ご了解下さい。

依田学海「長谷川庄七に関する記述」

(明治二三年九月二三日、十月三日『国民之友』)

文久三年十二月八日、佐倉藩代官職依田学海が続徳太郎と共に、城下にて単身の長谷川庄七と会った。障子の影には刀を横に置いた佐倉藩士が控えている。長谷川庄七「斉昭公の遺志を継ぎ攘夷を行うため、軍用金や兵器を貸して頂きたい」依田学海「幕府の命を奉ずるのが臣下の勤め。貴殿の志は立派であるが、ご希望には添えない」

長谷川庄七の人と成り、背格好など。

・ 年の頃は三十二、三歳位で面長で背が高く、髪は水戸で流行の大髪に結っている。 ・ 黒羽二重の紋付きを着て同じ外套を被って、仙台平の野袴を穿いて ・ 腰の所に刀を一本置いて、側にとても長い刀を置いている。 ・ 外国の横暴を批判する時は、表情も怒るように、体を震わし声を苛立て、斉昭公について語る時は、涙を流し眉を顰め、金穀を請う時は表情を和らげ礼を厚くし、恥じて言い辛そうで憚って恐れ多いようである。 ・ 言葉は朴訥で言い辛い事を言う様子は、田舎武士のようにみえるが、交渉事に手慣れた人物のようである。 ・ 郷士の中にあっても名の知られた人物らしい。 ・ (長谷川庄七 戦死の報を受け)実に慷慨有志の士というべきものであった。


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