top of page
hitachinokuni

夤賓閣にて、長谷川庄七 死す


※ 夤賓閣での戦いは、8月16~18日。『水輜重府室町氏筆記(全)』には「八月十五日長谷川勝七亡骸小川之陣営二贈る」、墓碑には「八月十五日也」、鹿島郡郷土史には「八月十八日也」、昭和大礼贈位書類第三冊『故長谷川庄七』には「元治元年八月十六日戦死」と、亡くなった日付はまちまちの記述となっています。

※最近ご教示頂いた「幕末明治実歴譚」、頼三樹三郎門下の薄井竜之の口伝(筑波騒動実歴談) によると、 御殿間近に押し寄せた長谷川(隊)が攻撃され引いた所へ、裏から藤田小四郎、表から飯田軍蔵が攻めのぼり・・という描写、日付はありませんでした。

※『水輜重府室町氏筆記(全)』の室町氏とは、小寺玉晃著『甲子雑録 第一巻』に記載されていた室町稲太郎(長谷川庄七とともに小荷駄奉行を務める)と考えて良いのではないでしょうか。

※展示した際の解説文のみup致します。

※※失礼しました。誤字を訂正致します。(誤)建久 → (正)健久

夤賓閣は、徳川光圀が建てた海防を兼ねた別邸。 元治元年8月~10月 大発勢・天狗党x幕府軍・諸生党・諸藩軍 の戦いで那珂湊一帯は戦場となる。8月中旬、天狗党・大発勢に攻められた諸生党は町なかへ逃げ、「反射炉」「夤賓閣」等に立て籠もった。諸生党 市川三左衛門等が「夤賓閣」から攻撃していたのを、筑波勢の一部隊の隊長であった長谷川庄七が1人真っ先に槍をふるって勇戦。他の者達も刺激され一斉に突進し奮戦、ついに市川勢は敗走したが、この戦いで長谷川庄七は敵弾に倒れた。

『水輜重府室町氏筆記(全)』における長谷川庄七の記述

(東京大学史料編纂所所蔵)

長谷川庄七の遺骸は、小川郷校に送られ天聖寺に埋葬された。松平頼徳からは悪者を追討して亡くなった者達を大切にするように言われ、葬儀等のために百両頂いた。

『長谷川庄七 墓』

長谷川庄七の遺骸は、小川 天聖寺より長谷川家墓地に改葬された。「健久」は庄七の諱。


閲覧数:62回0件のコメント

最新記事

すべて表示

「常陸志 第1編 (鹿島郡之部) 」

長谷川庄七の新たな史料が見つかりました。 多少の違いはありますが、塙泉嶺著『鹿島郡郷土史』とほぼ同じ内容です。 画像転載には、文化庁長官の裁定が必要になりますので、 リンクのご紹介だけ致します。 「常陸志 第1編 (鹿島郡之部) 」 小沼総蔵 編...

塙泉嶺著『鹿島郡郷土史』

『鹿島郡郷土史』塙泉嶺著( 「政教新聞社」1927) 沼前村之部 故長谷川 壯 七 氏は駒場人也、東茨城郡芹澤村芹澤外記の第四子也嘉永三年出でて長谷川四郎工門の家を嗣ぐ由來同家は駒場の豪族たり、文久三年徳川將軍入朝の折壯 七命を受け西丸を警衛す 所謂 新徴組なるもの是也壯...

小宮山楓軒『楓軒紀談(八)』

小宮山楓軒(1764~1840)の書き残した『楓軒紀談(八)』の芹澤外記に関する記述 (国立国会図書館所蔵) 文政八年乙酉 (中略) 外記ハ男女ノ子九人アリ男子多治見(家督孫四人)半五郎(分家孫三人)門弥(府中税所氏養子孫三人中一人夭死)重五郎(浜野茂衛門孫養子ニ約)...

bottom of page