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hitachinokuni

投降後

更新日:2022年2月22日

12月24日、水戸浪士の収容も見届ける事無く、一橋慶喜は海津の本陣を引き上げました。『浪士』とはいえ、総人数823名のうち水戸藩士はわずか35名で、後はほぼ農民なのだそうです。水戸藩内郷校で水戸学、ひいては烈公・徳川斉昭の教えをうけ、時代を憂い、実直に行動に移した彼らが、烈公の子、頼みとしていた慶喜に指揮された鎮撫隊に捕縛される。なんという皮肉でしょうか。


加賀藩は天狗党西上勢を捕縛・収容後も手厚い接遇をし、正月には鏡餅と酒樽七荷、子供たちには饅頭を与えたのだそうです。時々見回って慰問したという事からも、同情からだけではない交流があったのではと思っています。


明けて1月18日、天狗党追討総括の田沼玄蕃頭意尊が一橋慶喜に謁見し、水戸浪士の処分についての一任を取り付けました。

それを聞いて、加賀藩の重臣たちは残酷な結果になるのは必至と、慶喜公、側近の原市之進、公家、烈公の子である因幡、備前、浜田等諸侯に陳情や助命嘆願等、西上勢の救命運動に尽力しましたが、願いは届きませんでした。


いよいよ、1月29日をもって幕府の大目付黒川近江守に引き渡す事となり、永原甚七郎等は27日夜、本勝寺を訪ねました。そして対面した武田耕雲斎、武田彦衛門、田丸稲之衛門、山国兵部、山国純一郎、武田金次郎へ、幕府への引き渡しになる事を申し渡しました。武田耕雲斎は、現在に至るまでの加賀藩の懇切な取り計らいに対して御礼を申し述べ、心からの感謝のほどを表しました。


1月29日朝から翌明け方にかけて、加賀藩から幕府へ西上勢の引き渡しが行われました。警護には彦根・福井・小浜の三藩。病死者5名を除く818名が本勝寺、長遠寺、本妙寺から引き出され、舟町のニシン蔵(肥料蔵)16棟に拘禁となりました。一棟には50名ほど、窓は釘付けられて真っ暗、置かれた桶が便所の代わりとなっていました。敷物はムシロのみ。持ち物は全て没収され、武田耕雲斎他30人を除き、松板の足枷がされていました。食事は一日に二度、むすび一つとぬるま湯が出るだけという劣悪な待遇。


2月1日、田沼玄蕃頭意尊は200名の隊と共に敦賀に来ると、永建寺を本陣とし、永覚寺に仮白州を設けました。すぐさま武田耕雲斎はじめ西上勢幹部等が引き出され吟味、次々と宣告がされて行きます。調べはただ一回、即刻判決を下しました。その他ほとんどが武士以外の身分であった西上勢に対しての処分の判断は、「武器を取って戦ったかどうか」という一点であったとも聞いています。


田沼玄蕃頭意尊、黒川近江守盛泰、大目付滝沢喜太郎等、幕府方による天狗党西上勢への処分


死罪353名、遠島137名、構いなく追放187名、水戸渡し130名、永巌寺預け11名(15歳以下の少年)


※この他、小林幸八が外国人襲撃の罪で横浜に送られ磔刑。この小林幸八を含めての(死罪353名)だと言われています。「松原神社祭神事歴」にある過去帳によりますと(352名)、小林幸八の名は解りませんでした。


2月4日から、来迎寺 裏にて処刑が始まりました。


2月 4日 武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎等 25名(過去帳24名)

2月15日 秋山又三郎正元等 134名(過去帳139名)

2月16日 濱埜松次郎忠正等 103名(過去帳102名)

2月19日 綿引誠一郎忠保等  75名 (過去帳76名)

2月23日 朝倉三四郎景敏等 16名 (過去帳16名)

※以上、「武田耕雲斎等の墓」看板他より (「松原神社祭神事歴」より)


大久保利通が憤り、勝海舟が批判したという残忍を極めた処分。福井藩は非道に過ぎると、この斬手を引き受けず帰藩しています。ここまで処刑を急いだのは、先の加賀藩、在京の本圀寺党等、天狗党西上勢に同情的な者達の働きかけで助命嘆願の声が広がるのを恐れたためだったのでしょうか。


武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎の首級は、水戸に送られ、町中を引き回した後に梟首し、その後は野捨てとなりました。更にその家族は幼子も含めて処断されるという悲惨を極めました。


耕雲斎の孫 武田金次郎は遠島とされ、後の悲劇を生む事になります。


※訂正致しました。

 (誤)梅津の本陣→(正)海津の本陣

 (誤)小林忠八 →(正)小林幸八


食事は一日に二度 →史料にて確認出来たので元に戻しました。

 

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