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武田耕雲斎等の降伏

hitachinokuni

耕雲斎の一行が新保駅に到着した時は、冬季の長い行軍であって、隊士は全く疲れ切っていました。そうして耕雲斎等にも全く当初から戦意があったわけではなく、唯だその微衷を天朝に達するのが悲願で(あ)りましたので、同月十一日葉原駅に出陣した金沢藩兵に対してその趣意を述べ、通行の許可を求めました。然るに同藩は追討軍惣督一橋慶喜の応援に出兵した旨を答へ、兵馬の間に相見えようと申して来ました。耕雲斎等は是れ迄ひたすら頼みとして来た慶喜が追討軍を率いて出陣した事を初めて知り、大いに失望したと同時に全くその進退に窮したのであります。耕雲斎は今これと衝突して汚名を後世に残すよりは、寧ろ降伏して衷情を披瀝すべきだと決意し、金沢藩に託して歎願書を慶喜に致しました。その書には禁制を犯して軍装の衆を率い、諸国を通行した罪を謝し、敢て乱を好み、戦を挑む意思に非らずと述べ、烈公祖宗の遺志を継ぎ、東照宮の風教を欣慕し、尊攘の大義を貫く素志である事を陳べたのであります。

 然るに慶喜はこの歎願書を見て、これは降伏状ではなく、単なる陳情書だとして却下し、目付織田市蔵も葉原駅に来て金沢藩に討伐を命じました。耕雲斎は軍議を開いて進退を議りましたが、隊士の中には降伏すべきではなく、長州藩と合して尊攘の初志を貫くべきだと説く者があり、或るは飽く迄もこの地に踏み留って決戦すべしと主張する者もありました。併し耕雲斎は大局から見て最早如何とも為すべからざるを察知しましたので、諸衆を説いて全軍の降伏を決定し、十七日金沢藩に降伏状を託したのであります。同二十一日慶喜は耕雲斎の降伏を許して身柄を金沢藩に託しました。

同藩は武士道を以ってこれを遇し、敦賀に移して本妙寺・本勝寺・長遠寺の三ヶ寺に収容しました。 (「松原神社祭神事歴」 )

 
 
 

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