※芹澤本家出生説では「空白となっている芹澤貞幹三男は芹澤鴨、幼名は玄太である」とされていましたが、「玄太」は「兵太」の読み間違いであり別人であった事が確認されました。
※新発見されたそれぞれの史料には、『長谷川庄七は芹澤貞幹の四男(または四子)』と記述されています。海老澤正孝氏の「男女混合出生順続柄」(幕末「宗門人別改帳」での続柄の数え方は、出生順に男女混合である)により、貞幹の子供達(女・男・男・男)の内、芹澤家譜で三男と書かれていた第四子は、幕末の続柄では四男(四子)と数えられていた事が理解出来ます。芹澤貞幹三男が長谷川庄七である事は間違い無いと思われます。
※「芹澤貞幹三男」についてこれだけ調査されたにも関わらず、「芹澤鴨」と思しき人物についての記述が何も発見されないというのは不思議な事です。芹澤鴨が亡くなったのは文久三年、長谷川庄七のほぼ一年前です。同じような史料から、何故、芹沢鴨は浮かび上がって来ないのでしょうか。
芹澤 鴨
生年不明。新選組(壬生浪士組)の初代筆頭局長。前名は下村嗣次と推定されているが、出自・経歴は現在もはっきりと解らない。諱は光幹。本姓は桓武平氏。
文久3年2月5日、清河八郎の周旋により江戸で結成された浪士組に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を伴い参加。江戸剣術道場試衛館の近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助らも参加、京都まで行動をともにした。 清河八郎が攘夷決行のため江戸帰還を宣言すると、芹澤と近藤は京都残留を申し出て脱退。京都守護職会津藩預りとなり「壬生浪士組」を結成。後の「新選組」となる。
大阪相撲取り乱闘事件、八月十八日の政変等、短い期間ではあるが、芹澤鴨は乱暴な事件、豪放な活躍を見せる。
文久3年9月16日もしくは18日、大雨が降る深夜、突然数人の男たちが八木邸に押し入り芹澤を殺害。平山、お梅も惨殺。別室にいた平間は逃亡した。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺の寺侍)の『新撰組始末記』では、実行者は土方・沖田・山南・原田になっている。