『新選組初代筆頭局長 芹澤鴨』の出生地の説は三つあります。
①浪士姓名簿の「芹澤鴨」「水府浪人」の記述により、水戸藩を脱藩した浪人で水戸出身であろうという(芹澤家分家出生説)
②「空白となっている芹澤貞幹三男は芹澤鴨」と町をあげてPR、しばらく通説となっていた(芹澤家本家出生説)
③石河明善日記の「政府(水戸藩庁)より名指召捕人別」「下村継次」「手綱領松井村神職次郎八悴次郎八百姓より神官御取立の者也」の記述により、北茨城の下村家の出身ではないかとする(北茨城出生説)
※家康に仕えた芹澤通幹は兵部 と又衛門を名乗っている。長男・将幹は芹澤本家、二男・高幹は水戸で分家となり水戸藩に仕えた。
大河ドラマ「新選組!」放送当時、盛んにPRしていた(芹澤家本家出生説)を何故か誰もが自然に受け入れていました。つまりそれだけ芹澤鴨という人物には馴染みが無く、詳しい事を知っている方がほとんど無かったという事です。・・しかし「町おこし」の宿命と言いますか、ドラマの放送に合わせた性急な発表だったのは否めません。その後は、「実はそうではなかった」という事実がどんどん解ってしまいました。
歴史がお好きな年配の方には当然の話ですが、大河ドラマ以前まで「芹澤鴨は水戸出身」と言われていたそうです。それが(芹澤家分家出生説)の事だったとは、どれだけの方がご存知だったでしょうか。島田魁の英名録には「水戸」「芹沢鴨」その右隣に「又左(右?)江門子」と書かれています。墨も薄いので後書きと言われていますが、島田魁(もしくは記入者)はいったいその話を誰から聞いたのでしょう。芹澤家分家では、長幹以降が代々「又衛門」を名乗っています。八木為三郎翁による、芹澤鴨には「兄が二人あって、水戸様の家来だということで、よくりっぱな服装で訪ねて来ました」とあるのは、いったい誰の事でしょうか。・・しかし「水府浪人」とも書かれている芹澤鴨、またはその前名と言われる下村継次が水戸藩藩士だったという史料は未だ見つかりません。それ以外の芹澤鴨に成りうる某についても、芹澤家分家は今は絶家、調べる術がありません。
(北茨城出生説)では、地元で言われていたのはこれだけだそうです。
ーたばこ屋には暴れん坊で、行方不明の人がいるー
下村家では「体格のいい人で、出て行ったきり戻って来ない人がいる」と伝え聞いていたそうです。「敦賀に行って調べれば解る」とも言われていたそうなので、天狗派の方だったのは間違いない? ただ名前も解らないその方を、どう調べれば良いのでしょう・・。
石河明善日記に、「手綱領松井村神職次郎八悴」とあるのをそのまま読めば、「下村継次」は次郎八(下村祐斎)の長子。 しかし、継次の妻とされる能部の位牌にはこう記されているそうです。
弘化三丙午八月五日
故 大友氏能部長女之神位
大友治郎八義儔之長女
母 中妻邑弥勒院長女
不思議なのは下村姓では無い事ですが、(下村氏遠祖は九州大名大友氏)なのだそうです。このように大友姓とするのは下村家代々の風習なのかは不明、そして弘化三年の松井村近辺に「長女」という表現はあったのでしょうか。
残念ながら、「北茨城市には芹澤鴨の物は何も無い、下村家にも何も残っていない」(お聞きしたまま書き留めています)そうで、継次の実家も解りません。神職についていた記録さえ無いのです・・。 ともあれ。妻が下村祐斎の長女なら、継次はお婿さんですが、いったいどこから?
本当に謎ばかりです。
当時そのままの史料に、是非巡り合いたいですね・・。
石碑・墓石等が見つかりましたら、是非、製作年・製作者にもご注目下さい。