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あとがき


ここからは、素人の勝手な推測です。

美幹氏は何故、「芹澤家譜」の貞幹の子供達だけ「男女別出生続柄」という明治4年以降の戸籍法により書いたのでしょう。 

「医者として治療の為、諸生派にも天狗派にも関わった家柄ですから、少しの事が命取りになるかもしれない」

こんな事が思い浮かびます。

幕末の混乱で父・成幹が投獄され亡くなり、翌年、若年の身で当主になり、東下村波崎の親戚筋は一大事、兵太妻と過去帳に書かれたご夫人は亡くなり、諸生派党首市川三左衛門は天狗派残党が草の根分けて見つけ出し、惨たらしく処刑、時代は変わったもののいよいよキナ臭く・・。

家系図を見る限り、明治4年(1871年)で本家の成年男子は美幹氏だけで、「芹澤本家」を守る為にどうすれば良いかという事を常に考えておられたのではないかと。「芹澤家譜」に「長谷川庄七」を書き加える事で天狗党だった事、家族が諸生派・天狗派両方に関わった事が明白になるのを(特に地元に対して)避けたかったのでしょうか。

「長谷川庄七」はその当時でも、(貞幹や成幹に近い年代では)「貞幹四男(四子)」で通っていたでしょうし、美幹氏は明治の戸籍法では「長谷川庄七は三男」となる事を発見して、これは隠れ蓑になると感じたのかもしれません。長谷川家に養子に行ったまま天狗党に参加して亡くなり、芹澤本家の家督には関係しなかったのも幸いした。だから名前も書かなかった・・。

考え過ぎでしょうか。明治4年は芹澤本家にとってどのような年だったのでしょうか。本当の事は、美幹氏ご本人にしか解りません。それとも、単なる書き間違い??

>「長谷川庄七」はその当時でも、(貞幹や成幹に近い年代では)「貞幹四男(四子)」で通っていたでしょう

この部分、自分で書いてハッとしました。

ざっくり言うと 明治当初、戸籍法が出来てすぐの「壬申戸籍」は、当家主人の自己申告を庄屋さんが吟味して作成した物なのだそうです。作成に当たったのは主に貞幹や成幹の年代になるでしょうから、江戸時代の男女混合の続柄の数え方のままでの作成となっても仕方が無いのではないかと。それ以外の史料についても同様でしょうし、元の史料にはそう書かれていたということでしょう。こうして江戸時代と明治時代の続柄についての謎が紐解かれた事で、今まで謎とされていた様々な事柄が判明していくのでは無いでしょうか。

そして縁のご当家の皆様へ、墓石についてお願いがあります。

近年では古い墓石を整理して新しく作り直したり、墓の引越し等も行われて古い物が失われてしまっている事も聞くようになりましたが、墓石は様々な情報が詰め込まれている貴重な史料でもあります。

処分する古い墓石の写真(四面とも)を残す事を、切実にお願い致します。

最後になりますが参考書籍のご紹介です。

箱根紀千也氏著「新選組 水府派の史実捜査 芹澤鴨・新見錦・平間重助」

2016年11月16日 ブイツーソリューション発行

海老澤正孝氏寄稿「壬申戸籍・宗門人別改帳・芹沢家譜の続柄

平成28年12月1日 茨城民俗学会「茨城の民俗」No.55

長久保片雲氏寄稿「芹沢鴨と北茨城市との接点」

2005年5月 耕人社発行「耕人」

「常陸國の幕末史実」HP

https://hitachinokuni.wixsite.com/bakumatsu

「常陸國の幕末史実」ツイッター

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