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「長谷川庄七の謎①」


長谷川庄七という方をご存知でしょうか。

天狗党が、筑波山挙兵前に定宿としていたのは常陸府中藩(現石岡市)にあった紀州屋ですが、そこに話をつけ藤田小四郎等を連れて来たのが長谷川庄七なのだそうです。故山口誠太郎博士によると「鹿島郡駒場の里正で、紀州屋の姻戚関係にあった」とされています。 

そういう訳で、石岡での天狗党初期のエピソードでは時々目にするお名前です。

その長谷川庄七が、貞幹四男であると書かれている文書が一昨年、昨年と次々に発見・発表されました。

塙泉嶺 鹿島郡郷土史 「故長谷川荘七氏は駒場人也 芹澤村芹澤外記の第四子也」 

内務省調査 「長谷川庄七ハ常陸國行方郡芹沢村芹澤外記ノ四男」生年文政9年(1826年) 

芹澤本家家系図には書かれていない四男ですが、驚きを隠して冷静に判断すれば、四男が文政9年生まれなら、少なくとも三男は文政8年より以前に生れていなくてはなりません。そういう訳で芹澤鴨の出生年説の文政9年でも及ばぬ事となってしまいました。となれば貞幹三男はまだ見ぬ別人がいるのではないかとのイメージが先行し、そこへ先述の「芹澤兵太」が当て嵌められようとしていました。しかしそれでは1人増えてしまう事になる、芹澤美幹が作成した『芹澤家譜』に記載された貞幹の子供達は「三男一女」ではないかと論争に。

そこへまた、文書の発見の報がありました。

小宮山楓軒 楓軒記談「外記ハ男女ノ子九人アリ男子多治見(家督孫四人)」   

文政8年(1825年)年頭に書かれたものだそうです。

◇小宮山楓軒

(1764-1840)学者,民政家,水戸藩士。立原翠軒に学び,天明3年(1783)彰考館に入り,「大日本史」の編さんに16年間携わりました。その後,南(紅葉組)郡奉行に抜擢され,21年間民政にあたりました。その善政は領民を荒廃から立ち直らせ,深い感銘を与えました。(茨城県立歴史館HPより)

楓軒の書いた外記は清幹、多治見は跡取り息子の貞幹の事で、清幹には内孫が四人いるという文章です。この当時に貞幹に四人の子がいると書かれているのなら、その間にもう1人は入れられません(早世の女子がいたのではというお話もお聞きしています)。そして慶応2年以降に美幹により作成されたと見られる「芹澤家譜」には、三男一女の姉弟が三男以外のお名前と共に書かれています。それでは何故 長谷川庄七(荘七)について、塙泉嶺 鹿島郡郷土史には「芹澤村芹澤外記の第四子也」、内務省調査には「常陸國行方郡芹沢村芹澤外記ノ四男」と書かれているのでしょう・・。

「芹澤清幹」にも「小忠太」「弥二郎」「外記」の名前があり、しかも子沢山ですが、芹澤鴨や長谷川庄七に該当する子供はおらず、代違いという事は無いようです。

外記の子供達についての記述が文政8年(1825年)年頭に書かれたという事から、貞幹三男は文政7年(1824年) には生れていなければなりません。そうすると暗殺された文久3年(1863年)当時は40歳前後、平間重助とほぼ同年となりますが、「浪士姓名簿」には「芹澤鴨 亥三十二」「平間重助 亥四十」とあります。合いませんね・・。

次は、「芹沢村芹澤外記ノ四男」の謎に迫ります。


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あとがき

ここからは、素人の勝手な推測です。 美幹氏は何故、「芹澤家譜」の貞幹の子供達だけ「男女別出生続柄」という明治4年以降の戸籍法により書いたのでしょう。 「医者として治療の為、諸生派にも天狗派にも関わった家柄ですから、少しの事が命取りになるかもしれない」...

「長谷川庄七の真実」

長谷川庄七 ○生年には文政7年、9年、10年の記述がある。小宮山楓軒「楓軒紀談」から文政7年が有力。 ○那珂湊で戦死。元治元年8月15日、16日、18日の記述がある。亡骸は小川(郷校)に送られ、天聖寺に埋葬された後、長谷川家の墓地に改葬されたと考えられる。...

「長谷川庄七の謎②」

長谷川庄七の謎は、江戸時代と明治時代の芹沢村近辺の戸籍についての謎でもあります。 そして「芹澤家譜」についての謎々。 ○江戸時代の戸籍 「宗門人別改帳」 江戸時代の中期に宗門人別改で宗門改帳と人別改帳が統合された民衆調査のための台帳。現在で言う戸籍原簿や租税台帳である。名義...

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