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「長谷川庄七の謎②」


長谷川庄七の謎は、江戸時代と明治時代の芹沢村近辺の戸籍についての謎でもあります。

そして「芹澤家譜」についての謎々。

○江戸時代の戸籍

「宗門人別改帳」

江戸時代の中期に宗門人別改で宗門改帳と人別改帳が統合された民衆調査のための台帳。現在で言う戸籍原簿や租税台帳である。名義変更が遅れないかぎり、宗門人別改帳の筆頭者は検地帳の土地所有者と記述が一致する。

改帳の作成は、町村毎に名主や庄屋、町年寄が毎年行うこととされていたが、後に数年置きとなった地域もある。改帳には、家族単位の氏名と年齢、壇徒として属する寺院名などが記載されており、事実上の戸籍として機能していた。(Wikipediaより)

○明治時代の戸籍

「壬申戸籍」

明治4年(1871)4月、戸籍法が制定され、それまで各府県ごとに行われていた戸籍作成に関する規則を全国的に統一されました。戸籍法は、翌年に全国的戸籍を作成することを命じましたが、それによって作成された戸籍を「壬申戸籍」と言います。戸籍法により戸籍区が設けられ、各区に戸長が置かれ戸籍関係事務にあたることとされました。(国立公文書館HP説明文より) 

○芹澤本家の家譜

・芹澤美幹により作成された「芹澤家譜」(ホ本)

貞幹の子は「三男一女」とあり、三男の名は記されていない。最後尾に兵部成幹の長子である美幹の名。慶応2年以降の作成とされる。

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ここからは、海老澤正孝氏「壬申戸籍・宗門人別改帳・芹沢家譜の続柄」より、戸籍の続柄のお話です。

茨城郡宮ヶ村・行方郡芹沢村近辺の調査によると・・江戸時代の戸籍「宗門人別改帳」には生まれ順に男女混合の続柄で書かれ、明治時代に戸籍法が出来ると、現在と同じく生まれ順に男女別の続柄で書かれる様になりました。海老澤氏はそれぞれ「男女混合出生順続柄」「男女別出生順続柄」と名付けています。

例えば、このような違いがあります。

①男子②男子③女子④女子 の兄弟姉妹の場合は 

江戸時代「宗門人別改帳」(男女混合出生順続柄)・・倅・二男・三女・四女

※長子が男子の場合は「倅」、女子の場合は「娘」と記載する事が多いです。

明治時代「壬申戸籍」(男女別出生順続柄)・・長男・二男・長女・二女

それをふまえて「芹澤家譜」(ホ本)を見てみましょう。

三男一女ヲ生 外記貞幹元治元年没

長女 多気・男 興幹・二男 兵部 成幹・三男(無名)

貞幹の子は、(「男」=「長男」とすると)「男女別出生順続柄」で書かれている事になります。この続柄で書かれているのは貞幹の子のみ。他は「男女混合出生順続柄」(もしくは男子のみ・女子のみ)で書かれています。

「男女混合出生順続柄」に統一すると

娘 多気・二男 興幹・三男 兵部 成幹・四男(無名) 

芹澤家に四男が現れました。もう誰だか解りますね。

「長谷川庄七ハ常陸國行方郡芹沢村芹澤外記ノ四男」

そう。「長谷川庄七」です。

驚きの真実。

今後、芹澤本家または芹沢地区から「芹澤鴨かもしれない」と思われる方が見つけ出されるかもしれませんが、少なくとも「貞幹三男」である可能性はこれで無くなったと言って良いのではないでしょうか。

通説では「貞幹三男=芹澤鴨」と言われていましたがそうではなく、「貞幹三男=長谷川庄七」と解った時の衝撃を私は忘れる事が出来ません。

同じように体感して頂きたく、出来るだけ資料が解った順に記事をupしてみました。

「兵太は『貞幹三男』か『美幹』か」という討論もこれですっきりと収まりました。「兵太は美幹である」事は、ある方が「芹澤潔戸籍」により芹澤潔(美幹)が本家を継いだ日を確認され、慶応四年当時の本家当主である事が判明されたのだそうです。

という訳で「芹澤鴨の出生地はどこか」という問題は、振り出しに戻ってしまいました。今の所、「石河明善日記」での「悴」という記述で「北茨城出生説」が1歩リードしている格好です。 ただ「宗門人別改帳」での上では、「悴」は「長子で男子」となりますが、それ以外の文章にあった場合は、単に「息子」という意味になるのだそうです。「息子」には「養子」も含まれる事を考えると、「北茨城出生説」の決定打にまではなり得ません。

※尚、海老沢氏はまとめで「(「宗門人別改帳」と「壬申戸籍」で続柄の書き方に違いがあるのは)狭い地域の事例ではあるが・・」としていますが、同氏調査の結果、天保期以降の鹿嶋郡子生村・荒地村、茨城県立歴史館で閲覧可能な近世後期の「宗門人別改帳」も「男女混合出生順続柄」による記述と確認されています。もしも故意に書き分けられたのであるならば、「芹澤家譜」は「男女混合出生順続柄」「男女別出生順続柄」の二種類の続柄の記述が見られる貴重な史料と言えます。

※お知らせ

前記事「長谷川庄七の謎①」にて訂正があります。

「貞幹四男=長谷川庄七」と解かっていた為に、三男をもう1年上に数えてしまいました。

混乱した方がいらっしゃったら、ごめんなさい。

(正) 外記の子供達についての記述が文政8年(1825年)年頭に書かれたという事から、貞幹三男は文政7年(1824年) には生れていなければなりません。

(誤)芹澤鴨が貞幹三男である事を固持するならば、少なくとも文政6年(1823年) に生れていなければなりません。


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あとがき

ここからは、素人の勝手な推測です。 美幹氏は何故、「芹澤家譜」の貞幹の子供達だけ「男女別出生続柄」という明治4年以降の戸籍法により書いたのでしょう。 「医者として治療の為、諸生派にも天狗派にも関わった家柄ですから、少しの事が命取りになるかもしれない」...

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