永倉新八翁 主だった著書・口述書籍
『浪士文久報国記事』(写)・・明治9から10年頃。平成10年に発見された。
「水戸芹沢村浪人芹沢鴨、実者天狗隊ノ隊長、木村継次申ニハ、此仁ヲ組頭二人撰イタス」
芹沢鴨暗殺・・九月六日とあるが、「九月中旬ノ頃」芹澤鴨が吉田屋で乱暴狼藉を働いたとあるので、この「六日」は「十」の欠落した「十六日」と考えられる。
『新撰組永倉新八』・・「小樽新聞」記者吉島力の取材による、晩年の永倉新八の口述を同新聞に「永倉新八」と題して連載。その後、書籍となった。
『新撰組顛末記』・・永倉新八の長男、杉村義太郎氏が、父の十三回忌をむかえて編集発行した「新撰組永倉新八」を改題して出版されたもの。新装版には関係者の話や永倉の遺稿の一つ「同志連名記」なども収録された。
「かれは常州水戸の郷士で、真壁郡芹沢村の産で、勤王の傑物武田耕雲斎にしられ、有名な天狗隊の一方の旗頭とたてられ隊員三百名をあずかって重きをなした。(中略)本名は下村継次(けいじ)と呼び、・・」
『新選組奮戦記』・・読み物風にまとめた小樽新聞連載「永倉新八」を、原文に忠実に再活字化したもの。
< 芹澤鴨についての記述 >
○名前について
「木村継次」「下村継次」の記述があります。継次の出身となるかもしれない木村家というのは未だ見当たらないそうです。「木」「下」は左斜め線1本しか違いませんし、書き間違いなのでは無いかなぁ。「継次」に関しては「嗣次」「嗣司」とするものもあります。「嗣」は「けい」とは読まないですね・・。
○出自について
「水戸芹沢村浪人」
ここで浪人と呼んだのは元藩士か元郷士か。特性上、水戸藩の郷士が浪人となる可能性は低いのではないかと思います。
「かれは常州水戸の郷士で、真壁郡芹沢村の産で、」
『浪士文久報国記事』(写)とは記述が違いますね。それから真壁郡に芹沢村はありません。
○玉造勢時代について
「勤王の傑物武田耕雲斎にしられ、有名な天狗隊の一方の旗頭とたてられ隊員三百名をあずかって重きをなした。」
玉造勢(記載では天狗隊)の下村継次(=芹澤鴨として)は要注意人物として?名簿の名前の上に○が三つ付けられています。天領である佐原での強引な金銭の押し借りと乱暴狼藉(「佐原騒動」)が捕縛の理由でもありました。隊員三百名を預かる旗頭でも隊長でもありません。
武田耕雲斎が天狗党に関わったのは松平頼徳公が大発勢を率いて水戸へ鎮撫へ向かった辺り、芹澤鴨暗殺の翌年からです。それ以前は前水戸藩藩主斉昭公死去の後の混乱を収めるべく天狗党・諸生党各派閥の調整に当たり、藤田小四郎にも「時期尚早」として尊王攘夷の蜂起を戒めていました。下村継次が武田耕雲斎にしられるような事があったとしたら、悪事が報告されていたのでしょう。
今の所は、以上まで。