芹澤鴨の出生年には三つの説があります。
それぞれ暗殺された文久3年(1863年)時の年齢は
文政9年(1826年)暗殺時38歳
天保元年(1830年)暗殺時34歳 ○
天保3年(1832年)暗殺時32歳 ◎
八木為三郎爺によると「歳の頃は34,5・・」浪士姓名録には「亥三十二」という事でしたから、「天保元年」「天保3年」が有力です。むしろ逆算してそれぞれの説が出来たのかもしれません。
遡って、芹澤本家出生説によると少年芹澤鴨は15歳で延方郷校へ、後に下村家に養子へ行く事になります。
現実的な年表を見ると
弘化元年(1844年)貞幹「追鳥狩り」参加
弘化2年(1845年)下村継次の子と言われる常親生れる
「追鳥狩り」で少年芹澤鴨に相当する参加者は無いようですので、この時には養子に行った後と考えてみます。
「追鳥狩り」のあった弘化元年(1844年)の年齢は
文政9年(1826年)弘化元年時19歳 ◎
天保元年(1830年)弘化元年時15歳
天保3年(1832年)弘化元年時13歳
数え年の年齢ですので、満年齢だと1,2歳若くなります。なので文政9年出生説以外は、延方郷校に行った後に養子に行き、弘化2年に息子がいるのは難しいと思います・・。
そして「下村継次の子と言われる常親」ですが、『下村祐斎の位牌裏に「祐斎の子」として「常親」の名が記されている』事が謎とされています。
さて、説はあくまでも説。
一昨年・昨年と次々発見された史料の記述により、貞幹三男が生れる可能性の年の範囲がどんどん狭まって来ました。