一昨年、ある文書が見つかっています。
「慶応四年(1868年・明治元年)周辺村々騒動につき東下村波崎名主石橋彦兵衛願書」
諸生党を匿ったため禄高没収になってしまうので、水戸藩役人に何とかして欲しいと、親戚筋である芹澤家分家 兵太殿、亀三郎殿、小澤家、芹澤本家 大森氏に頼むという内容で
文中に「当辰四月中御領分本家芹沢兵太殿宅え罷出候処」とあります。
上記の願書の内容から、慶応四年四月当時の芹澤本家の当主は「兵太」という事になります。
「法眼寺」過去帳に「兵太妻」(「玄太」の読みは誤り、正しくは「兵太」と判明)とあるのは、この方の奥様でしょうか。
その他、元治元年(1864年)諸生党の治療にあたった記録が残っていて、芹沢兵部(成幹)と兵太の名が併記されています。
芹澤本家では、貞幹の長男・興幹が天保13年(1842年)に亡くなった後、養子先・窪谷家から二男・成幹が呼び戻されて当主となり、慶応2年(1866年)に亡くなっています。
では「兵太」はいったい誰なのでしょうか。
現在では、「兵太」は成幹の長男・美幹と考えられています。
弘化4年(1847年)生まれで、慶応四年で19歳。年若い青年ですが途絶えたと聞いた事はありませんので、「筋渡薬」他も伝授されていた事でしょう。美幹は明治32年(1899年)に亡くなっています。
実はこの「東下村波崎名主石橋彦兵衛願書」が見つかった当初、「兵太」こそ貞幹三男、美幹とは別人なのではと討論がされていたのです。理由は、四男の存在。
次回は貞幹四男・長谷川庄七についてup致します。
※「法眼寺」過去帳に「兵太妻」(「玄太」の読みは誤り、正しくは「兵太」と判明)
現在は読みの誤りにフォーカスされていますが、「玄太」を幼名としたところが一番問題。
芹沢村には、「旦那さんの幼名に妻」で奥さんを表現し過去帳に書く風習はあったのでしょうか。
何故「(発見された当時の読みの)玄太」は「芹澤鴨の幼名」と特定されたのでしょうか。