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「那珂湊の戦い(元治甲子の乱)」①


それまでの経緯

元治元年

3月27日 天狗党筑波勢 攘夷断行・横浜鎖港を主張、筑波義軍旗挙

4月 3日 筑波勢はまず日光東照宮を目指し、挙兵が幕府に背く事で無い事を示そうとするが、幕府が許す訳は無く、幕府からの追討軍及び諸生党・諸藩連合軍が下妻に出向き、再び筑波山に布陣していた筑波勢と戦いとなる。

7月7日~9日「下妻の戦い」追討軍が敗戦。これが後の禍根へとなって行く。敗れた諸生党は江戸に帰ろうとするが、改革派・鎮派へと政権が変わっていたため帰れず水戸へ。水戸城へ入ると水戸の政権を掌握し、天狗党の家族を弾圧。

それを知った天狗党は「まず内奸を討つべし」しかしここで、当初の目的通り横浜へ向かおうとする志士達が分裂。また、栃木・土浦等で金品を強要、火付け等乱暴(「愿蔵火事」)を働いた田中愿蔵は7月3日付で除名処分とされている。 

7月24日 水戸へ向かうため筑波山を下り、小川館に本営を置く。

7月26日「銷魂橋の戦い」水戸についた藤田小四郎等は備前堀を挟んで諸生党と戦うが、準備万端待ち構えていた諸生党に破れる。

1.大発勢 水戸での内乱を鎮撫せよとの幕命を受け、水戸藩藩主 徳川慶篤は分家の宍戸藩藩主松平頼徳を名代とする。 8月4日江戸発 松平頼徳 水戸街道を下る。水戸藩士700名余も随行。 小金井(松戸)では、武田耕雲斎・山国兵部等、天狗親派等400名が参加。 人夫の募集もあり、水戸に着く頃には約3000名余の大所帯となる。 *「大発勢」は大勢という意味。

8月8日水戸着 藩主名代である松平頼徳に対し、諸生派・市川三左衛門等は応じず。水戸城に入れない為「薬王院」へ。

8月10日 約3000名の大発勢は那珂湊へ移動。


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