松平頼徳から助言を求められた助川海防陣屋の山野辺義芸は、応えて向かおうとするが水戸城兵に阻まれ叶わず。その後は市川との仲立ちをしようとするも 9月6日、陣屋を囲まれ、二本松藩陣営に投降する。9月9日、落城。
助川海防陣屋はその後、田中愿蔵隊が攻め占領するが、二本松藩兵、水戸城兵等が大挙して押し寄せたため9月26日に脱出する。その後は八溝山に篭るも、食料の調達もままならず隊を解散。愿蔵は10月4日に塙代官所に捕らえられ、10月16日に久慈川辺の刑場にて斬首となった。享年21歳。
3.松平頼徳の最期 9月22日 砲戦中にも関わらず、代官手代 田中銈之助が井田好徳の陣に投じ、頼徳に面談求む。「平和に解決する意思あるなら弁明に当たりたい」 *武田耕雲斎・山国兵部は策略と疑うが、頼徳「休戦して後報を待つように」
9月26日 頼徳一行(約30名)は那珂湊を出て、長福寺の戸田五助(諸生派指揮官)に会う。
田沼意尊「江戸に帰してはならない」
9月27日 頼徳一行は、涸沼・石岡を通り水戸街道を抜けて江戸へ出ようとするが、堅倉にて水戸城兵に捕らえられる。 10月1日 松平頼徳と父・宍戸藩主頼位の官位は没収。宍戸藩は改易となる。 10月5日 松平頼徳 水戸藩の支族松平万次郎邸にて切腹。享年34歳。 鳥居瀬兵衛・大久保甚五左衛門等、17名が死罪。
松平頼徳公 辞世の句
「思ひきや野田の案山子の竹の弓
引きも放たで朽ち果てんとは」