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「那珂湊の戦い(元治甲子の乱)」④


4.大発勢の投降

10月10日 「辺田野原の激戦」                           幕府軍総括田沼意尊の命により幕府軍及び諸生党・諸藩軍からの総攻撃始まる。17日、18日と総攻撃を仕掛けるが大発勢・武田勢・筑波勢・潮来勢を破れず。 10月21日 「岩船山下の船中の会見」 水戸の中間派(諸生派寄り)と大発勢の会合。その後、大発勢代表は館山にて武田耕雲斎、藤田小四郎等と会合。投降させるのは策略と疑うが意見を聞かず。 密約あり 折衝役都築鐐太郎「斬首など行わない」「投降者は蝦夷地開拓の業に従わせる」 榊原新左衛門  「幕軍に味方して賊徒(天狗派)を追討しよう」 10月23日 大発勢の降伏。長福寺へ。 佐倉藩、高崎藩等へ預けられる(6藩その後、11藩に分けて預けられる) 古河藩には榊原新左衛門他 6名

*後に、大発勢は死罪・獄死となる(約600名) 

数に勝る幕府軍・諸生派・諸藩軍は激戦・苦戦を続け、諸生派は「松平頼徳公と大発勢を落とし入れる」という策に出た。もともとは天狗派でも諸生派でもなく、水戸藩藩主名代として、松平頼徳公は鎮撫をしなければならない立場。それがタイミングの妙で、天狗派とともに諸生派・(同じく鎮撫の)幕府軍と戦っている。その複雑な立場と心情につけ込んだもの。

大発勢が降伏した同日、幕府軍及び諸生党・諸藩軍は、大発勢と示し合わせた通り武田勢・筑波勢・潮来勢の陣地を攻撃するが、前夜、大発勢の寝返りの報を受けた武田勢・筑波勢・潮来勢は、間一髪でそれぞれ北方へ脱出し、大子へ向かう。


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