大発勢
「水戸での内乱を鎮撫せよとの幕命を受け、水戸藩藩主 徳川慶篤は分家の宍戸藩藩主松平頼徳を名代とする。水戸城に立て籠もる諸生党は大発勢と天狗党を同一視し、城内に入れないばかりか葵紋にさえ砲撃をする。那珂川を上り再度水戸城に使者を送るも戦い(「神勢館の戦い」)となる。諸生党には幕府軍がついた為、天狗党と共に戦う頼徳及び大発勢はジレンマに陥る。弱みにつけ込み、諸生党は甘言を持って頼徳及び大発勢を陥れる。」
大発勢には、年表と共に上記のような説明文をつけました。
宍戸藩主 松平頼徳公はただ1人責任を負い、深みから出られない。江戸を出立した時には、水戸で家臣格から攻撃され陥れられるとは夢にも思っていなかった事でしょう。天狗党に同情的だったと言われますが、水戸藩は「尊攘」思想であり御連枝も同様、頼徳公に敬意を表していたのも天狗党側でした。諸生党 市川三左衛門は最終的に東京で捕まり水戸で処刑され「忠が不忠となるぞ悲しき」と辞世の句を残しますが、果たして水戸藩主名代を受け入れず非礼をはたらく行為は「忠」であったのか甚だ疑問です。
幕府軍総括 田沼意尊は笠間でしばらく情勢を伺っていましたが、市川からの誘い掛けもあり追討軍は諸生党側につく事になります。「たられば」になりますが、松平頼徳公・大発勢が天狗党側を離れ、追討軍が笠間にいる内に合流なりしていれば・・。それ以前に、水戸城入城を拒否された時に即座に攻撃していれば・・。時間は元には戻せませんが、戦いに巻き込まれながら実直に立ち向かおうとした宍戸藩主 松平頼徳公を、忘れる事は出来ません。
松平頼徳(まつだいら よりのり)
元治元年10月5日、水戸藩の支族松平万次郎邸にて切腹(1831-1864)
常陸宍戸藩の第9代藩主。大炊頭。従五位下。贈従三位。
辞世の句
「思ひきや野田の案山子の竹の弓
引きも放たで朽ち果てんとは」
松平頼徳公が眠る「水戸徳川家墓所」
常陸太田市 瑞龍山