天狗党 西上勢を迎え撃ったというより、何とか弱らせて別の方向へ向かってくれないかと苦心した大野藩。積雪地帯の冬季に村々を焼き、領民の住処と生活の基盤を奪ってしまいました。大野市博物館には、「西谷村の焼け残った土蔵の戸」が所蔵されています。
元治元年の大野藩は不運続き。6月 蝦夷地開発の発起人であった内山隆佐(りゅうすけ)が病で亡くなり、8月には藩船「大野丸」が沈没し、成功を収めていた蝦夷地開発事業がとん挫。藩主は参勤で不在。そして12月4日、天狗党が蠅帽子峠を越えてやって来た・・。
天狗党 西へ (~大野)
元治元年11月1日に大子を出発してから一ヶ月。その間「下仁田の戦い」「和田嶺の戦い」があり、また行く先々で諸藩の抵抗や思惑、ある所では庶民の歓待もありました。
12月1日 揖斐宿代官は応戦の準備をしていたが、棚橋衝平が説得、解散させる。 「勝てる見込みはない。無事に通過させるべき」 棚橋衝平は揖斐宿の庄屋になりすまし、西上勢を迎えます。
今後の進路について聞かれ「行く手には大垣藩など、関ヶ原には彦根藩が陣を敷いている。越前か近江に出られよ。」と進言。 西上勢は岩井屋に本陣。軍議が開かれ、越前に向かう事に。
諸藩の追撃、降雪・積雪との戦いは目に見えた事。藤田小四郎は「希望を捨てることなく素志を貫徹しよう」と、新軍規を示します。 12月2日 薩摩・西郷隆盛の使者・中村半次郎が来る。「京へ来らるべし」
大津に一橋公が出張している事も伝えます。 対する西上勢の答えは、「一橋公に敵対して通行する事は出来ない」 ※一橋慶喜は、天狗党迎撃を願い出て朝廷から許され、12月3日大津に出陣します。 他に松平昭武、在京諸藩・近隣諸藩。
※注 室伏勇著「写真紀行天狗党追録」からお借りして要約させて頂きました。 西上勢は大雪の蝿帽子峠へ。 雪と戦いようやく断崖の山道を越えたかと思うと、行く先々の集落や村が大野藩により焼かれ、寒さと疲れ、飢えにも苦しむ事となります。 武田耕雲斎は、自分達のために村々がこのような目にあったのかと見舞金を。
村人達はお礼にと、食事を用意。 西上勢のこの様子が伝わったのか、笹又峠を越えた木本村(このもとむら)に着くと、村をあげて歓待されたのだそうです。 ここから大野城下までは一里ほど。当然、大野藩中にも伝わっていたでしょう。 大野藩は軍資金を贈り、「城下に近づかず、今庄宿方面に向かって欲しい」 もちろん戦いなどしたくありません。西上勢は、大野城下を迂回して大雪の宝慶寺の峠へ。