◎木本村(12月6日泊)から東俣村(12月8日泊)にかけて、村人達から歓待(と言って良いと思う)を受け、天狗党西上勢は御礼等 様々な物を残しています。一部だと思いますが書きつけます。
「武田耕雲斎遺留日本地図」木本村 鯖江藩大庄屋役杉本家
・関東、中部、北陸、近畿地方を中心とするもの
・中国、四国、九州地方を中心とするもの
※双方、八畳程の大きさ。水戸藩では安永八年(1779年)「改正日本興地路程全図」が長久保赤水により作成されていますが、杉本家に残された日本地図は「幕府作成 家光の時代の写しではないか」と研究が進んでいるようです。地図として使用したのではなく、天皇への献上品として持参したのではないかとも。
「伝武田耕雲斎所持 虎渓禅師一行書『安心』」同杉本家→柴田重助家
「兜の鍬形」大本 山本仁輔家
※本陣として宿泊。山本家には天狗党通過についての記録も残されている。
水戸浪士の「髺(たぶさ)」と「生墓(いきばか)」谷口村 善徳寺 (前記事 参照)
「こよりで作った巾着」東俣村 飯田彦治兵衛家
※飯田家の当主(辰之助)が捕らわれている浪士を敦賀まで見舞に行き、耕雲斎の孫(金十郎)が作った巾着を形見として貰って帰った。
※浪士宿泊に係わる記録が残されている。
※後年、武田耕雲斎の縁者が訪れ、耕雲斎の肖像画を贈っています。
◎記録、書状等
「元治太平記」(「大野市史」諸家文書編二布川源兵衛文書)
「中村雅之進宛 内山良休書状」元治元年12月17日日付 戦況報告
「武田耕雲斎一件」大野藩士 蘭学者・広田憲寛が聞き取りを中心に記録
「笹又番所宛 安藤彦之進書状」水戸天狗党より通行許可を求める書状
◎家の入口にある一本橋をお侍が馬に乗ったまま見事に渡った、「ぞろ(おじや)が食べたい」というので作って喜ばれた、もてなしの御礼に脇差をくれようとしたのを家長が遠慮してしまって残念だった等、村人との交流により様々な逸話も残されています。
東俣から今庄宿方面に向かう山並み。現在はもちろん道路が完備されていますが、当時は山中を進む道。
◎今庄宿 12月9,10日泊
関ケ原の戦いの後、越前国主となった結城秀康が北陸道を整備、今庄は重要な宿場でした。
天保年間には、戸数240軒、人口1300人余り、旅籠屋55軒。
「亭主一人は残って家を守り、後の家人は全部山へ逃げよ、食糧を持参し、着るものもたくさん用意せよ」とのお触れがあり、西上勢はほぼ無人の今庄宿へ入る。
武田耕雲斎等 本陣・後藤覚左衛門家泊(現「公徳園」写真)
武田魁介等 斎藤伝兵衛家泊
朝倉弾正等 平塚市郎左衛門家泊
◎食糧も乏しく寒さも厳しい中、些か乱暴な逸話も残ります。
「天狗党の刀きず跡」京藤甚五郎家(写真)
※酒蔵から酒を出してそれで風呂を沸かして酒風呂に入った。
「藤田小四郎遺墨」今庄宿において、酔余の勢いで障子に書いたとされるもの
「武田耕雲斎の句」旅館の小風呂の戸に書きつける
咲く度に 花やいかにと たち居つつ
心尽くしの 春の山かぜ
※空家同然の家に泊まった浪士達ですが、家の人が帰ってみると、使った道具はきちんと整頓してあるし、火の始末もしてあり、宿賃が金五文也と書いた紙包みの中に入れて床の間においてあったというお話も残っています。
〇浪士達の遺品
今庄宿近辺の杣木や小倉谷では、矢立や陣笠、印籠、煙管などの忘れ物があったそうですが、お役人からのお咎めを恐れて集めて燃やしてしまった。また後には何も残していかなかったと村の人達は口をあわせるよう相談したということです。
今庄の方のお話をお聞きしていると、当時は逃げてしまっていたので逸話も少ないし、せっかくの品物も焼いてしまって残っていないしで、残念がっておられるような気がしました。
しかし、雪山を越えて来た西上勢です。屋根の下で過ごせた事が何より有難かったのではないかと思います。