元治元年
12月7日 大本村(本陣 山本家)
12月8日 東俣村(本陣 飯田家) ~ 谷口村
大野・福井・鯖江・勝山・府中、各藩が布陣。
西上勢は先鋒隊が布陣を発見すると、戦闘を避ける為 杉峠を越えて谷口村に出る。
神社の名前を失念してしまいましたが、浪士達はこの道を通って来たのだと教えて頂きました。
現 池田町谷口に「善徳寺」という 真宗誠照寺派 のお寺があります。
当時の様子は写真のように紹介されています。谷口村には約340名が分宿。
記録に寄りますと、本陣から最後尾まで、西上勢は総勢1,061名を数えます。
善徳寺には、水戸浪士の「髺(たぶさ)」と「生墓(いきばか)」が残されています。
諸藩兵に囲まれ、道は一方に絞り込まれて行き、例え出陣した一橋公にお目見え叶ったとしても自分達の命は無いだろう事を痛感していたのではないかと思います。
「遺骨代わりに供養して欲しい」と髺を差し出され、「死を急いではならぬ」と強い口調でたしなめたという観意和尚も、それはきっと感じた上で「望みを捨てるな」との思いだったのではないでしょうか。
石上庄兵衛尉藤原政治、篠田利助藤原元治と名乗るお二人について
どうやら偽名のようだとの事で、確かに松原神社の祭神名鑑を拝見してもお名前は見当たりません。
何か手掛かりはないものかと、ご住職に「何々隊とか、お二方の人相や背格好とか、何か伝わっている事はありませんか」とお聞きしたのですが、残念ながらそれらの記録や伝承は無いそうです。ただ、「最後に来た人達だった」という事を教えて下さいました。お二人の事を仰っていたというより、谷口村に到着(宿泊)したのは善徳寺に来た浪人達が最後だったというニュアンスだったように思います。
地元に帰ってから、天狗党に詳しい方とお話しする機会がありました。その方によると、最後尾を歩いていたのは、凍傷などを負っていた潮来近辺から参加した方々なのだそうです。もしかしたら、とも思いましたが、ここでの最後尾は谷口村の手前の金見谷(かなみだに)のようで、手掛かりはなかなか現れません。
「生墓」に刻まれた銘文
元治元年水戸候之藩士有故潜隠筑波山
後欲赴帝都路々為諸藩苦 雪積越嶮
岳幽谷欲至敦賀石上庄兵衛尉藤原政治
篠田利助藤原元治之両士来宿当山
両士切髺曰願曰以今日為命日故任志願
作此墓