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芹沢鴨の出自はどこか
※展示会「新選組芹澤鴨出自の謎ー天狗党長谷川庄七の真実ー」パネルより。 ※芹澤鴨の出生地は、(芹澤家分家出生説)(芹澤家本家出生説)(北茨城出生説)の三つの説があります。 ※下記の史料には「水府浪人」と記述されています。郷士が浪人となる可能性は低い事から、(郷士か藩士か、の...
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2018年4月20日読了時間: 2分
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芹澤鴨プロフィール
※芹澤本家出生説では「空白となっている芹澤貞幹三男は芹澤鴨、幼名は玄太である」とされていましたが、「玄太」は「兵太」の読み間違いであり別人であった事が確認されました。 ※新発見されたそれぞれの史料には、『長谷川庄七は芹澤貞幹の四男(または四子)』と記述されています。海老澤正...
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2018年4月16日読了時間: 2分
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塙泉嶺著『鹿島郡郷土史』
『鹿島郡郷土史』塙泉嶺著( 「政教新聞社」1927) 沼前村之部 故長谷川 壯 七 氏は駒場人也、東茨城郡芹澤村芹澤外記の第四子也嘉永三年出でて長谷川四郎工門の家を嗣ぐ由來同家は駒場の豪族たり、文久三年徳川將軍入朝の折壯 七命を受け西丸を警衛す 所謂 新徴組なるもの是也壯...
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2018年4月9日読了時間: 1分
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小宮山楓軒『楓軒紀談(八)』
小宮山楓軒(1764~1840)の書き残した『楓軒紀談(八)』の芹澤外記に関する記述 (国立国会図書館所蔵) 文政八年乙酉 (中略) 外記ハ男女ノ子九人アリ男子多治見(家督孫四人)半五郎(分家孫三人)門弥(府中税所氏養子孫三人中一人夭死)重五郎(浜野茂衛門孫養子ニ約)...
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2018年4月6日読了時間: 1分
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小宮山楓軒の記述による長谷川庄七の生年・父である芹澤外記とは誰の事か
※長谷川庄七は「那珂湊戦争」諸生党が陣とする夤賓閣(湊御殿)を攻め落とす際に亡くなりました。日付は史料によりそれぞれですが、元治元年(1864)の事でした。史料に書かれている享年による生年は以下の通り。 墓碑「享年四十一」・・文政7年(1824)...
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2018年4月4日読了時間: 1分
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長谷川庄七ハ芹澤外記ノ四男(四子)也
※もとはと言えば、「芹澤貞幹三男」について調査していたものが、あちらこちらから新発見されたのは四男・長谷川庄七についての史料でした。「芹澤外記の子供たちは『三男一女 』とあるのに、四男(四子)とはどういう事なのだろうか?」と、調べていらっしゃる皆さんは本当に頭を悩ませていま...
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2018年4月2日読了時間: 2分
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夤賓閣にて、長谷川庄七 死す
※ 夤賓閣での戦いは、8月16~18日。『水輜重府室町氏筆記(全)』には「八月十五日長谷川勝七亡骸小川之陣営二贈る」、墓碑には「八月十五日也」、鹿島郡郷土史には「八月十八日也」、昭和大礼贈位書類第三冊『故長谷川庄七』には「元治元年八月十六日戦死」と、亡くなった日付はまちまち...
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2018年3月30日読了時間: 2分
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長谷川庄七の役職
※日光東照宮を目指す筑波勢。武装をした集団が行軍しているという事は、一大事としてあちこちに報告されていた事でしょう。小寺玉晁は尾張藩士で雑学者です。本名は広路。字は好古。 水戸藩以外の探索者が一刻を争い人名を突き止めるのは大変な事。記載された人名には間違いもあり、名前違いで...
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2018年3月28日読了時間: 1分
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長谷川庄七の人となり
※長谷川庄七の人となりは、依田学海「長谷川庄七に関する記述」に垣間見えます。また、佐倉藩に訪れた際の服装や背格好等が解るのも貴重です。↓のように断られる訳ですが、長谷川庄七は怒りを落ち着かせ、「お二人の話はよく分かった」と理解を示します。お互いに礼節ある話し合いをし別れます...
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2018年3月26日読了時間: 2分
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「長谷川庄七」年表
長谷川庄七 ○生年には文政7年、9年、10年の記述がある。小宮山楓軒「楓軒紀談」から文政7年が有力。 ○那珂湊で戦死。元治元年8月15日、16日、18日の記述がある。亡骸は小川(郷校)に送られ、天聖寺に埋葬された後、長谷川家の墓地に改葬されたと考えられる。...
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2018年3月20日読了時間: 2分
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長谷川庄七プロフィール
長谷川庄七 生年には文政7年、9年、10年の記述あり。小宮山楓軒「楓軒紀談」から文政7年が有力。 天狗党筑波挙兵時の小荷駄奉行、輜重奉行。常陸国芹沢村芹澤外記の四子として生まれる。 後に鹿島郡駒場村郷士長谷川四郎右衛門の養子。養父四郎右衛門の長女八重子と結婚、養父の...
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2018年3月18日読了時間: 1分
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ウィキペディア「長谷川庄七」頁のお知らせ
ご無沙汰しております。 年が明けたらと言っていたら、もう三月弥生も後半です。 そろそろ動かないと!と思っていたら、どなたかがウィキペディア「長谷川庄七」の頁を作って下さいました。 脚注では、史料にもリンクされています。 ご覧になってみて下さいね。
hitachinokuni
2018年3月17日読了時間: 1分
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松平頼徳公
大発勢 「水戸での内乱を鎮撫せよとの幕命を受け、水戸藩藩主 徳川慶篤は分家の宍戸藩藩主松平頼徳を名代とする。水戸城に立て籠もる諸生党は大発勢と天狗党を同一視し、城内に入れないばかりか葵紋にさえ砲撃をする。那珂川を上り再度水戸城に使者を送るも戦い(「神勢館の戦い」)となる。諸...
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2017年12月23日読了時間: 2分
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「那珂湊の戦い(元治甲子の乱)」④
4.大発勢の投降 10月10日 「辺田野原の激戦」 幕府軍総括田沼意尊の命により幕府軍及び諸生党・諸藩軍からの総攻撃始まる。17日、18日と総攻撃を仕掛けるが大発勢・武田勢・筑波勢・潮来勢を破れず。 ...
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2017年12月8日読了時間: 2分
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「那珂湊の戦い(元治甲子の乱)」③
松平頼徳から助言を求められた助川海防陣屋の山野辺義芸は、応えて向かおうとするが水戸城兵に阻まれ叶わず。その後は市川との仲立ちをしようとするも 9月6日、陣屋を囲まれ、二本松藩陣営に投降する。9月9日、落城。 助川海防陣屋はその後、田中愿蔵隊が攻め占領するが、二本松藩兵、水戸...
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2017年12月7日読了時間: 2分
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「那珂湊の戦い(元治甲子の乱)」②
2.那珂湊へ 8月12日「願入寺の戦い」 市川三左衛門他、水戸城兵(400~500名)は那珂川を下り、華蔵院と大洗を押さえ、願入寺を占拠。涸沼川を越えて来た大発勢と、那珂川を挟んで大砲を打ち合い戦う。大発勢の勝利。水戸城兵は城へ。 ...
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2017年12月6日読了時間: 2分
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「那珂湊の戦い(元治甲子の乱)」①
それまでの経緯 元治元年 3月27日 天狗党筑波勢 攘夷断行・横浜鎖港を主張、筑波義軍旗挙 4月 3日 筑波勢はまず日光東照宮を目指し、挙兵が幕府に背く事で無い事を示そうとするが、幕府が許す訳は無く、幕府からの追討軍及び諸生党・諸藩連合軍が下妻に出向き、再び筑波山に布陣して...
hitachinokuni
2017年12月4日読了時間: 2分
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今後の記事
パネル展「新選組芹澤鴨 出自の謎ー天狗党長谷川庄七の真実ー」での解説パネルの一部をご紹介して行きます。 まず展示中にリクエストがありました 「大発勢と松平頼徳公」「那珂湊の戦い」について、 明日から少しずつup致します。
hitachinokuni
2017年12月3日読了時間: 1分
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石岡市パネル展 終了
石岡市まちかど情報センターにて、11月22日~29日まで開催していました パネル展「新選組 芹澤鴨出自の謎-天狗党 長谷川庄七の真実ー」は無事に終了致しました。 写真展示のご許可を頂きました史料所蔵の皆様、写真パネルのご協力を頂きました皆様に、厚く御礼申し上げます。...
hitachinokuni
2017年11月30日読了時間: 2分
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あとがき
ここからは、素人の勝手な推測です。 美幹氏は何故、「芹澤家譜」の貞幹の子供達だけ「男女別出生続柄」という明治4年以降の戸籍法により書いたのでしょう。 「医者として治療の為、諸生派にも天狗派にも関わった家柄ですから、少しの事が命取りになるかもしれない」...
hitachinokuni
2017年11月28日読了時間: 3分
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